習慣を身につけるということ

前回投稿から結構空いてしまった。

習慣化していないと全然ブログを書くこともしなくなってしまう。

 

その間、前から行ってみたかった静岡県の寸又峡に行ってみたり(旅に出るとやはり色々な発見がある、この件に関してはまた後日書いてみたいと思う)、何かと感じることはあったのだが、何らかのアウトプットを出しておかないと、すべて自分だけの経験に収まってしまうし、その時気付いた「気付き」を思い出すきっかけにもならない。

 

本を読んでもただ漠然としたインプットに終始してしまうので、来年に向けてなるべくアウトプットする(書く)習慣も身につけていきたいと思う。

 

文章を書くのは元々得意ではないし、今の生活習慣のままでは書くための習慣も整えていないので、意識的に生活を変えていくためにも少しずつ取り組んでいきたいと思う。

 

読了「脱貧困の経済学」

 経済学者の飯田泰之氏と活動家の雨宮処凛氏が、ホームレスや非正規雇用者、日雇い派遣労働者など、近年問題となってきている格差社会、日本社会における貧困問題に対して、それぞれの立場からの主張を基にした対談形式で書き進められた本。

 

実際に活動家としてホームレス支援や年越し派遣村に関わってきた雨宮氏が、その経験を基に経済学に対する疑念、疑問を飯田氏に投げかけ、飯田氏がそれに対して回答していく形で話が展開されている。

 

貧困対策としてのベーシック・インカムの導入について興味があったので、勉強のために検索したところ引っかかった本書であるが、導入の背景となるホームレス支援などの現場に関わっている雨宮氏の経験を基にした主張・質問と、それに対する飯田氏の経済学の視点から観た解説がわかりやすく、入門編としては非常に良い本に巡りあったと思えた。

 

本書は当初、2008年のリーマン・ショック後に行われており、その後、政権交代東日本大震災という大きな契機を経た上で更に振り返りも含めた追加対談が掲載されている。

 

飯田氏のスタンスは、まさに現在日銀により行われているような積極的な量的緩和を行うことで市中に供給されるマネー供給量を増やすことにより、デフレからインフレへと転換することを主張している。

そして、労働環境の改善は好況下でこそ実現すると説く。

 

これはどういうことか?

 

インフレ転換により、好況状態を生み出せば必然的に人手不足が生じる。そうした人手不足が生じるような好況下であれば、厳しい労働環境にさらし労働者に嫌悪されるような企業は、不況下では労働環境が厳しくとも、その企業を辞める(あるいは解雇される)と他に行き場がないため、やむなくその条件下でも働くという選択を行ったとしても、好況下では労働者も他の企業に移るという選択肢が生じるため、企業は労働者に長く残ってもらい、働いてもらうためにも労働環境は改善せざるを得なくなる。

 

私は1984年生まれなので、バブル景気は小学校に上がる前後、そして、1997年の金融危機の際は中学生だった。

なので、実質的に記憶に残っている経済状態としてはリーマン・ショック前のミニバブル期以外は不況だったイメージしかないので、働き出した今でも好況ということはなかなか実感できないのだが、飯田氏の説明は確かに腑に落ちるところは多い。

 

雨宮氏の日雇い派遣の原則禁止の主張については、それを行ってしまうとそれによって職を得られていた人達が完全失業の状態に回ってくる可能性を指摘している。

また、最低賃金に関してはフルで働いたとして(この条件は文中に記載されていなかったが、週40時間労働×4週を想定しているのだろうか?)最低限生活できる程度の水準(具体的には最低千円)を雨宮氏は主張されている。

ちなみに、先進国でこのような考えたかに基づく最低賃金が導入されていない国は日本だけだという。飯田氏もその水準に関しては同意しているものの、それを実施してしまうと現在の地方経済が保たないと回答している。また、サービス残業の様に、今でさえ守られていないような制度をさらに厳しくしたところで守られない可能性も高く、また、管理コストが高くつく可能性も高い。

それよりも、生活保護を含め、最低限度の生活水準に届かない労働賃金に対しては不足分を公的扶助により給付する方が望ましいのではないかというのが飯田氏の回答である。

 

生活保護に関しても、現在の行政側の水際作戦により給付を抑制するよりは、先ほどの賃金補助も含めて一律に最低限度の生活保障をかける。

そうして、最低限度の生活が保証されて、失敗しても生きていけるような状態を整えた上で解雇規制などを緩和し、雇用の流動化を促すような政策を取る。

 

雨宮氏と飯田氏の中で一致しているのはこの、何らかの形でのベーシック・インカムの導入である。

 

好況転換しても、デジタル・デバイドなどにより、現在の状態では労働力の過剰感は解消されないのではないかと思えるが、飯田氏は好況下ではそれでも人手不足が生じるとも説く。

 

奇しくも、現在は飯田氏が主張されていたような量的緩和が実施されている状態なので、氏の主張が検証できる好機であるとも思われる。

 

話の中で出てくるベーシック・インカムの給付水準は最低限度のものではあるが、貧困対策を抜きにして、仮に年収300万円程度のベーシック・インカムが導入された時に、自分も含めて今の仕事を今の給与水準で続けたいと思う人は一体どれほどいるのだろう?

 

本書は対談係止で進められており、2人の著者の対話を聞きながら場に参加して話を聞いているように思えるほど平易に書かれているので、自分の中でも新たな疑問点などの「気付き」に出会える良書だった。

脱貧困の経済学 (ちくま文庫)

脱貧困の経済学 (ちくま文庫)

 

 

読了「マタギ 矛盾なき労働と食文化」

先月、大館・北秋田芸術祭2014のスタッフとして働く知人の元を訪ねたのが、「マタギの里」として有名な秋田県の阿仁地区であった。

 

訪問するまでは特に意識もしておらず、こう言ってはなんだが、気候帯(当地は世界でも有数の豪雪地帯らしい)やその影響に因る植生が違うくらいで、大きな意味では大差のない閉鎖的な日本の田舎なのではないかと思っていた。

実際に、現地を訪問して、秋田内陸縦貫鉄道に乗車した際も延々と続く田園地帯を見ている限りは、他の、いわゆる田舎と呼ばれる地域の景色と大きな差はないように感じられた。

 

だが、現地で知り合った大学生(彼らは住み込みで現地の人達と芸術祭の準備に関わり、その過程で色々な話を聞いていたい)から、現地の人と共に仕事をする中で聞いた話を又聞きするうちに、俄然その地域、と言うか「マタギ」という言葉に惹かれ出した。

 

最も印象に残ったのは、マタギの狩猟対象である熊(芸術祭のシンボルにもされている)、その熊から取れる熊の胆は昔から薬として重宝がられ、「熊の胆一匁、金一匁」と言われ、金と同価で取引されていたという。

 

その換金性から、マタギは熊を追い、熊の胆を売るために、遠くはロシア(正確にはサハリン辺りらしい)までも出かけることがあったと言う。

 

一般的に閉鎖的、保守的とされる日本の田舎にあって、何というグローバルな動きだろう!

 

と、その時話を聞いていて、是非マタギから話を聞いてみたいと思ったのだが、その時は特にアポも取っているわけでもなく、時間も無かったので、断念。

 

改て、本書の様にマタギに書かれた本を読み、その文化に触れているところである。

 

ちなみに、その時に聞いた話では、(サハリンは時代によっては日本統治下のことも含まれているのかもしれないが)時代によっては北海道、ロシア(サハリン)という地域は政治的にも言語的にも日本ではないため、そういった地域の人と交渉して、熊の胆を売ったり、現地で行動するに当たっては当然言語能力や交渉能力が求められる。

当地ではその地域を一瞥しただけでは(私が感じたように、雪のない季節のせいもあるかも知れないが、日本の他の地域と大きな違いが感じられない)想像もつかないほど、知能の高い人が多く、実際に高学歴で東京に出て行った人も多いとの事だった。

 

大分前段で話を取ってしまったが、本書に関してはきっかけは別にしても、私と同様にマタギに興味を持った著者が、実際にマタギと知り合い、長い年月をかけて猟に同行させてもらった時の経験を基に書かれている。

 

猟については、マタギと言われてすぐに想像される熊にかぎらず、ウサギ、川魚、キノコと、換金性に富んだ獲物に限らず、今と違い物流などの面から食料確保に制限のあった当地における生活に必要な資源の獲得や、その扱いに関する文化的な面も書かれている。

 

本書の前に読んだ、田口洋美氏の著作「マタギを追う旅 ブナ林の狩りと生活」では、地形的な描写や文化的な背景の推察のために実際に調査を行ったり、資料を作成して学術的な雰囲気が漂っていたのと違い、本書は基本的に著者の経験に基づいて書かれており、特定のマタギとの付き合いに重点を置かれた描写はどちらかと言うとブログを読んでいる感覚に近かった。

 

どちらの著作とも、描写する側面は違えど、基本的に伝える点は大きく異なってはいないように感じたので、合わせて読むとより理解が深められると思う。

 

マタギ 矛盾なき労働と食文化

マタギ 矛盾なき労働と食文化

 

 

 

マタギを追う旅―ブナ林の狩りと生活

マタギを追う旅―ブナ林の狩りと生活

 

 

読了「年金詐欺 AIJ事件から始まった資産消失の「真犯人」」

著者の森永秀和氏は専門誌「年金情報」の編集長。

年金資産を消失させたとして大きな社会的関心を呼んだAIJ事件。

「年金情報」編集部では、事件前から確証は持てなかったものの、その危険性を察知し、警鐘を鳴らすと共に、その動向を追ってきた。

 

本書ではその経緯と共に、事件発覚後にはAIJ社長の浅川和彦氏へのインタビューも行っているが、本書では結局浅川氏が故意から事件を起こしたのか、同氏のそれまでの経験から結果的に詐欺行為に切り替えたのかは明らかにはなっていない。

ほぼ同時期に起きた、アメリカでのナスダック市場創設に尽力したバーナード・マドフ氏の詐欺事件も引き合いに出しながら、年金運用を始めとする投資の世界における規制の難しさもあぶり出す。

 

日本の厚生年金はバブル崩壊までは株式などのリスク資産ではなく、高度成長を背景とした債権運用でも結果的に大きな成果を出せてこれた。

その経済成長の恩恵の中で運用管理には長けていても、資産運用に関しては素人という人材しか育ててこれなかった。

 

バブル崩壊以降の金融規制緩和の流れの中で、AIJの他にも制度の抜け穴を悪用する者が現れ、そうした悪用に気づける人材を育ててこれなかったことが、結果的には運用資金を積み立ててきた最終的なサービス受託者である積立者の資産を既存することになる。

 

最終的な被害者は年金資金の積立者でもあるが、「真犯人」は行動経済成長の恩恵に浴し、それを見抜けなかった人材しか育ててこれなかったこの国の年金制度と、それを許容してきた年金資金の積立者本人であるのかもしれない。

 

年金詐欺 AIJ事件から始まった資産消失の「真犯人」

年金詐欺 AIJ事件から始まった資産消失の「真犯人」